山﨑家(旧井上家) 主屋について

1 建造物の所在地

  京都市右京区嵯峨観空寺明水町59番の2

2 建造物の歴史

当該建造物は京都嵯峨大覚寺門前を西に向かう通りの北側に位置し、その東側、通りの西方には町名の由来となっている観空寺がある。一帯は田園地帯で田畑が広がり、農家が点在する落ち着いた景観を保っている。

当該建造物を普請した井上家は平維盛の家臣の井上重屋が建久年中(1190~1199)に嵯峨北菖蒲谷に住まいしたことにはじまると伝わる。その後、広沢池の南方に移住し、慶長年中(1596年~1615年)に嵯峨観空寺の現在地に移ったとされる。位牌によると、寛文3年(1663)8月1日卒の秀重が「当家先祖」とされる。江戸時代には大覚寺に勤士し、北嵯峨村の年寄も勤め、明治以降は戸長や村長なども勤めていたと伝わる。井上家は庄屋の家柄であり、代々自らも農作業に従事していた。生産は米が基本であるが、先代の時点では林業が主となり、松茸山も所有していた。また、古都保存特別地域内の茶畑(1ヘクタール)を入手し、製茶を始めてホイロゴヤ(焙炉小屋)を建てた。

当該建造物は江戸時代中期のはじめごろに主屋の主要部が建てられ、幕末以降に西側突出部(角屋)が増築され、西蔵や北蔵もそのころ建築されたと伝わる。大正以降に西部屋や北蔵前部屋が増築された。

主屋には、広々としたダイドコロニワの土間があり、中央に七つ竃(カマド)を配し、傍らには長者火と呼ばれる土間イロリが設けられ、土間の東端には現在でも水を湛える大きな井戸が維持されている。七つカマドのうち最も大きなカマドは正月の餅つきの際に使われ、近年まで近隣の方々を招いて餅つきが行われていた。

敷地は東西およそ60m、南北およそ40mで、北側は水路を隔てて隣家の敷地に接し、東西と南側は道路に接する。道路に接する部分は土塀で囲われ、南側中ほどやや東に薬医門を構える。主屋は敷地中央に位置し、南側に正面入り口をもつ。主屋を中心に、西蔵、北蔵、東に住居、納屋、米蔵が一円を囲む配置となっている。

周囲に広がる田園風景の中で、漆喰塗、瓦葺きの土塀にゆったりと囲まれ、その中央に高々と茅葺の屋根を掲げる主屋の姿は江戸期につながる地域の景観を守り伝え、また、歴史や民俗を伝えるうえで重要な建築物といえる。よって、景観法及び京都市景観計画に基づき、歴史的意匠に優れ、地域の自然、歴史、文化等からみて、景観上の特色を有し、良好な景観の形成に重要な建造物として、平成30年度に景観重要建造物の指定を受けた。

主屋は木造平屋建で、屋根は茅葺で庇部分は瓦葺とし、正面は入母屋造の妻面を見せ、背面は切妻造の妻面を見せる。このような屋根形式は京都府では、嵯峨から向日町あたりにかけての一帯だけに存在している。薬医門をくぐると正面に幅2間の玄関が見え、その東側にゲンカンニワへの入口があり、さらに東側には牛小屋(マヤ)が1間ほど突出している。ゲンカンニワの土間にはいると左側にゲンカンに上がる式台がある。正面奥の戸を入ると3間半四方の広々としたダイドコロニワの三和土(タタキ)の土間が広がり、中央に7つカマドのクドが据えられている。手前には土間を方形に区画して長者火という炉を構え、かつては1年中朝から晩まで火が焚かれていた。クドの手前(南面)には三和土を広さ2畳程、深さ50~60センチ程長方形に掘り下げた室(ムロ)がつくられ、かつてはサツマイモなどの貯蔵庫となっていた。ダイドコロニワの東端にある井戸は現在も水を湛えている。ダイドコロニワの北面の黒々とした庭大黒は松の自然木の手斧削り(ちょんのはつり)で、井上家が400年近く火を出さなかった象徴でもある。歴史を示すかのように現在でも愛宕さんの火迺要慎のお札が貼られている。小屋組は棟束(むなづか)と叉首(さす)を併用したものである。このような構造手法の面から推定すれば、およそ江戸中期のはじめごろの建築と京都府教育委員会の調査では考えられている。

農地改革前の井上家は二十数町歩を有する豪農で、ダイドコロの箱火鉢の前に井上家の番頭がそろばんを手にして座っており、小作人が年貢米の相談にきていた。江戸中期の建築当時は、ダイドコロの南に式台のついた玄関の間が8畳。ダイドコロの北側に下台所。それら三室の三倍ほどの四間半四方もあるダイドコロニワが東にある。間口が五間で奥行きが六間という旧形式の五六建であった。井上家の財力と地位の向上により、この五六建の旧宅に増築を行う事を為政者から許され、納戸の六畳、その左に書斎と上便所、右にも一室が出来上がった。ダイドコロから西方に3畳のナカノマ、8畳の仏間、10畳の座敷が並び、この部分は幕末の増築と伝わる。この家を空から見おろすと均整のとれたT字型になっている。このような角屋(つのや)は、時の為政者と結びつき、その家が次第に発展してきたという歴史を示すものである。 

座敷の柱は面皮柱(めんかわばしら)が用いられ、床柱に北山杉の磨き丸太、北側の縁側との境の下地窓などに数寄屋の意匠が見られる。仏間と座敷の南側には庭に面する濡れ縁が設けられ、庭の植栽と内塀の向こうに嵐山や愛宕山の山並みを望む。

現在の主屋の瓦は、江戸時代に下嵯峨(当時の高田村)の瓦窯元であった花野九兵衛が焼いた瓦が使用されている。花野九兵衛の銘が刻印されており、軒先の瓦の文様は花野九兵衛が焼いた嵯峨釈迦堂清凉寺の境内の中の薬師寺本堂、亀岡市の丹波国分寺の本堂、高雄梅ケ畑の吉川邸(旧家)の主屋の軒瓦の文様とほとんど同じである。花野九兵衛は亀岡市の大圓寺本堂(京都府暫定登録文化財)の鬼瓦に宝永7年(1710)、嵯峨釈迦堂清凉寺の境内の中の薬師寺本堂の鬼瓦に元文5年(1740)、京都市上京区の立本寺本堂(京都市指定文化財)の鬼瓦に延享2年(1745)、亀岡市の丹波国分寺の本堂の瓦に安永3年(1774)の文字が残されている。高田村の北にある現在の嵯峨美術大学の場所は、以前は池になっており、亀岡から筏を組んで材木を運んだ集積地であった。当時の下嵯峨にはたくさんの材木商がおり、丸太町通りもその丸太に由来している。亀岡と嵯峨が結ばれていたことから、亀岡の大圓寺や丹波国分寺で、嵯峨の窯元の瓦が運ばれ使用されたと考えられる。


3 引用文献

①  「京都府文化財図録 京都府教育委員会発行 昭和43年発行 解説編213頁」

②  「京都 民家のこころ 朝日新聞京都支局編 昭和48年発行 192頁」

③  「京都を彩る建物や庭園”認定候補調査報告書「井上家」2013年3月NPO法人古材文化の会伝統建築保存・活用マネージャー会」

④  「文化財保護課所有 井上家資料 2005年、2011年」

⑤  「平成28年度 京都市景観重要建造物等候補設計委託調査報告書」

⑥  「甍技塾 徳舛秀治様による主屋の瓦に関する調査報告」